いわゆる七夕豪雨。
朝起きると、車のボンネットまで水がきていたのを覚えている。
これを教訓として、大谷放水路がつくられ、浅畑遊水池が設けられ、水害の不安は少なくなった。
元々は静岡市内は安倍川の扇状地であり、安部川は暴れ川だった。
それを家康が薩摩藩などに命じ堤工事を実施し、当時の藁科川に流れを変えた。
元の安倍川のあった場所の東西には、安東、安西の町名が残り、さつま通りという道もある。
※薩摩の人は今でもこの遠く離れた静岡まで難工事に駆り出された事を恨んでいるというが、本当だろうか
市の中心は今でも地下水が豊富であり、数年前、各地で水不足が深刻になった際も、静岡市ではまったくその心配はなかったようだ。
七夕豪雨の被災地は主に市内の北部、東部と清水巴川流域で、安部川の扇状地からはやや離れており、若干水はけの悪い土地だったように思われる。
特に巴川は高低差が50mと極端に緩いため、大変な被害をもたらした。